今やらないと、一生やらない。悩むくらいならすぐにでも行動に移そう。後のことは何とかなる。そんな思いでかねてからの夢だった海外移住に踏み切った本橋さん。そこで得た経験は想像以上の意義をもたらしてくれた。
デザイナーの人生は長い。大きな企業で働くのも悪くない安定の人生だが、日常の繰り
返しに流されている時、ふと、もっと世界には未知の刺激があるはずだ、と日常から外
れてしまうのも悪くない人生だ。デザイナーにとって、海外という異なる価値観の中で
生活することは、+1になるか+100になるかは誰も予測できない。だが、決して−(マイナス)にはならないと信じられるからこそ、一歩を踏み出す勇気が持てる。そして何より、たった一度の人生、海外で一回は生活したいという単純な欲望を行動に移すことは意外に簡単だったりする。それを実践している卒業生の本橋さんにお話を伺った。
インタビュアー:大松 俊紀(スペースデザイン分野 責任者)
本橋 麻衣
Mai, MOTOHASHI
1990年東京都生まれ。都立工芸高等学校デザイン科卒業。2012年桑沢デザイン研究所卒業後、12年~17年コクヨマーケティング株式会社空間デザイン部にてオフィスやショールームの設計をメインに行う。18年にロンドンへ移住し、フリーランスとしてオフィスやレジデンス等のプロジェクトに携わる。20年日本に帰国し企業に就職、オフィス設計を続けている。
建築自体よりももっと内部に興味があった
桑沢時代卒業制作/桑沢時代「上原通りの住宅」(篠原一男設計)の見学
オフィススペースを3D プリンターのショールームに改修(東京・コクヨでの仕事)/某オフィス移転リフレッシュルーム(東京・コクヨでの仕事)
多くの人と関わるものを作りたい
大松:まずはどうして桑沢に入学したのかから教えてもらえる?
本橋:中学生の頃からグラフィックデザイナーになりたいという夢があり、デザイン系の高校に通っていました。同級生は美大を目指す子も多かったけど、桑沢の「専攻を選ばずに入学できる」という点が魅力的で選びました。グラフィックも勉強しながら、他の分野も学びたかったので。
大松:入ってみて、どうだった?
本橋:結局、全然想像もしていなかったスペース専攻に進みました。ビジュアルの勉強も続けたい気持ちはあったけど、高校の3 年間で学んだし、もっと大きなものを作りたい気持ちもあって。例えば広告などのデザインは大量に作られては消費されるイメージがあったのですが、空間は一度できれば長い間そこに存在して、多くの人に影響を与えるものではないかと思いました。でも2 年間勉強してみて、私は建築自体よりももっと内部に興味があることに気づいたので、最後の卒制は(空間ではなく)エレメントを選びました。
大松:コクヨに就職したんだよね。どこに惹かれたの?
本橋:コクヨのオフィスデザイン部門に入りました。特に日本では、家よりオフィスの滞在時間が長い。なのでその空間の機能性や居心地が、人の生活の質に大きく影響するんじゃないかと思ったんです。また、海外では自由でクリエイティブな発想を反映したオフィスが多いのに、日本ではまだまだ少ない。そういう部分にも携われたらという期待を込めて就職しました。
ステップアップのために海外へ
本橋:無事に就職したものの、やっぱり大変でしたね。オフィス設計となると、その企業にとっては数年に一度のビジネスなんです。企業の経営層の方々の想いを汲み取って、その理想を具現化するというのは本当に根気のいる仕事でした。
大松:働いていた部署の進め方は、例えばアトリエ設計事務所と比べてどう違った?
本橋:アトリエ事務所は自分たちのカラーを確立していて、そのデザイン性やクオリティを武器にしていますが、オフィスメーカーは大企業の安心感や信頼感が何より強い。コクヨには個々のスタイルを持ったデザイナーが複数いて、自分の想いを軸にデザインしていても、そこに説得できる理由があれば何でも良しでした。なので入社後すぐにプロジェクトのメインを担当させてもらえました。デザインの方向性もクライアントと相談しながら一緒に作っていくんです。
大松:そこで何年働いたんだっけ?
本橋:5 年半ですね。その間に大きい物件も手掛けたし、いろんな提案もできたけど、もう少し仕事の全体像が見える事務所で働きたくなって。どうやって仕事を獲得するのか、どうやって働いているのかが把握できるサイズ感の。そこで、私はヨーロッパのデザイナーが好きなことと、「卒業して海外に行きたい」という夢を捨て切れなかったこともあって、思い切って2 年間ロンドンに行くことにしました。
大松:ワーホリだったよね。働くところはどうやって探したの?
本橋:リクルートサイトに自分のCV(履歴書)を登録しておくとオファーが来るんです。そうしたらイギリスで独立した日本人デザイナーの女性が声を掛けてくれて。フリーランスとしてプロジェクトごとに契約して一緒に働いていました。
日本だけでは見えない価値観が海外にはある
[左の写真から順に]働いていた英国系設計施工会社(ロンドン)/設計中プロジェクトのテナント現場(ロンドン)/住んでいた街の近所の景色(リバプールストリート・ロンドン)
「働き方」の考えを変えたロンドン生活
大松:ロンドンで働いて、日本の働き方とは何が一番違うと思った?
本橋:残業という概念がまずないですね。海外では、みんな金曜日の夜には「忙しい忙しい」と言っている
んですけど、「全然終わらないわ」って帰っちゃうんですよ。17 時ですよ。その感覚は日本人には全くないじゃないですか。
大松:デザイナーの給料も海外の方が高かったりするしね。
本橋:コペンハーゲンにあるOe Oデザインスタジオにも行ったんです。京都の『開化堂』の店舗デザインや、東京の高級レストランなどを設計しているスタジオで、その人たちの日本の捉え方と、デンマークや北欧のデザインの考え方が日本の価値観と似ているところに惹かれて。で、その事務所もまったく残業なし。
大松:コロナが収束したらそこに行くの?
本橋:まだ分からないですね。でもポートフォリオは出したので、そこは希望を持って待っているところです。
大松:なるほど。ロンドンでは他に良いこと・悪いことあった?
本橋:良いことは沢山ありますね。働き方の考え方が変わったのは大きいです。日本でデザイナーというと残業も休日出勤も当然で、私も同じでした、イギリスに行くと全然違った。給料も高いし、休日出勤はおろか残業もない。日本にいた頃は“自分の時間を犠牲するのが当たり前”と思っていたのが嘘のよう。
大松:私は“留学したい”という学生には、「すぐに行け」ってアドバイスするんだけど。本橋さんはコクヨで働いてから海外に行ったけど、どう?
本橋:私も年齢的にもう遅いかなと思ったし、海外から戻って仕事があるのか不安もあったけど、人生の長いスパンで考えたらまだ若いし大丈夫、と信じてイギリスに行ったんです。するとヨーロッパ圏の同年代の人たちはこの歳でも定職に就いていない人も大勢いて驚きました。日本ではフリーターに偏見があったりしますけど、イギリスではそれも一つの生き方として確立している。だから、悩んでいるならすぐにでも行った方がいい。その悩みは行けば解決するし、同じような人は本当に沢山いるから大丈夫という気持ちになれます。
大松:行きたくても躊躇している人が一歩踏み出すためには、何が必要だと思う?
本橋:日本にいるから躊躇してしまっているんですよね、きっと。海外に行って思ったのは、日本にいるだけでは視野が全然広がらないということ。
大松:海外に行って日本の見方も変わった?
本橋:変わりました。良いところも、悪いところも結構ある。例えば、驚いたのは日本の食の選択肢の少なさです。海外、特にイギリスはベジタリアンやビーガンの人が多くて、宗教によっても食べられるものが違う。日本にいる時はそんなこと全然知らなかった。今の日本は国際化しようとしてはいるけど、まだ対応できていない。日本にいると、海外を含めた周りのことを知る機会があまりないように感じます。
大松:海外に行って就職とか留学することって、働いたり勉強したりするだけじゃなくて、そこで生活して、
その文化を学ぶという意義もある。むしろそっちの方が重要ですね。
本橋:日本では、一人前のデザイナーになるためには、徹夜で働くことが当然という風潮がありますけど、海外ではないですね。イギリスの友達は、もちろん仕事は大変そうだけど、土日はちゃんと遊ぶし、自分のしたいことをしながら生活が成り立っています。
当インタビューはCOVID-19 禍の2020 年5月23日、リモートにて行われた。左:本橋麻衣さん、右:大松俊紀先生
海外で働いたからこそ気づくこと
大松:日本に帰ってきて何をしてるんだっけ?
本橋:以前同様にオフィスを設計しています。ちょうど帰ってきたタイミングでコロナがヨーロッパでも流行りだして。本当は夏にヨーロッパに戻りたかったけど、一旦就職しました。
大松:具体的にはどんな仕事を?
本橋:『文祥堂』というオフィス設計を行う会社で、クライアントのオフィス移転やリニューアルを手伝っています。そこでも、残業はなるべくしたくないと伝えています。今、あるデザイン事務所と仕事をしているんですけど、18 時に打ち合わせが終わって「その図面何時にできます? 今日中いけます?」って言われて……。そこはおかしいと思いました。同僚から朝5 時にメールが来ても、みんな助けてあげないんですよ、上司の人も。それをどうやって変えていくか、頑張っています。
大松:夕方に打ち合わせがあったら、その日のうちに修正を送るってのが当たり前だよね、日本は。
本橋:そう。「金曜日に指示出せば土日にやってくれるかな」って。いやいや。それだと外注の人たちもそれで働かないといけなくなる。まずは1 日8 時間、週5 日の中でできるスケジュールを立てるべきなのに、残業や徹夜ありきで考えてしまう。
大松:ヨーロッパの文化、例えばキリスト教は日曜日という安息の日がちゃんとある。その違いは大きい。
本橋:日本にいると全然考えなかったんですけど、海外に行くと色んな人がいるので、宗教のことも考えるきっかけになりました。宗教とデザイン、建築は特に、相互に強く結びついている。そういう文化を教科書で習うのではなく、海外に出て、実際に現地で見聞きするのは面白いです。
今までにあった選択肢がいかに少なかったか
打ち合わせや作業で使っていたコワーキングスペース(ロンドン)
年齢や経験を気にする必要はない
大松:在校生に何かメッセージがあれば。
本橋:今まで、日本の年上の人たちには「5 年後の目標を立てて生きなさい」と言われてきたけど、5 年後にどこに住んでいるか分からない人なんて、海外に行くといっぱいいる。転職も当たり前だし。日本だと年齢や場所に縛られて自由が利かなくなっている人が多い。就職したら5 年、短くても3 年は働けという考え方があるけど、そういう思い込みは無視して、その時にしたいことをしてみればいいと思います。例えば「海外に行きたい」と思っているなら、あまり将来のことを考えなくても今行っておいた方がいい。その時したいことって、何年経っても「したいこと」として残ってしまう。だから、できるチャンスや時間があるのなら、その時にやるべき。必ず周りが助けてくれます。お金も。
大松:その通り(笑)
本橋:若い頃はもっと人を頼って、やりたいことをやった方がいい。そうすることで色んな選択肢が見え
てくるし、人脈も広がりますよ。もし悩んでいる人がいれば、冒険をしてみることを念頭に置いて、挑戦してほしいです。
大松:海外に行くと、今まであった選択肢がいかに少なかったかということに気付くよね。
本橋:そう思います。まず、英語は話せて当たり前でした。例えばヨーロッパではイギリス以外は第一言語
に母国語があって、第二言語に英語、次にドイツ語やスペイン語など、3ヶ国語を話せて当然でした。
大松:私はオランダの学校に行っていたけど、みんな世界中から来てて、完璧じゃない英語を使って話しているんだと思うとすごく気が楽になった。
本橋:そうそう。完璧に英語を喋ることなんて求められていない。イギリス人もそれに慣れていたし、伝わ
ればそれでいい。英語が苦手だからと恥ずかしく思う必要はないんです。
大松:それに、日本ではデザイン系の事務所もインテリアや建築事務所も、30 歳までに実務経験しないと転職できないという風潮があるよね。
本橋:日本に帰ってきた時に「ワーホリビザ取れないかも」とオーストリア人の友達に話したら、「ポートフォリオもWeb サイトもあるのに、何で働きたいところに日本から直接アプライ(応募)しないの?」と言われて衝撃でした。今の時代、世界のどこにいてもSkype でインタビューできる。だから今も、ポートフォリオを更新し続けて、サイトも作って、リクルートサイトにも登録して、常に情報を探しています。コンペにも積極的に参加した方がいいですね、受賞歴があれば強い武器になりますし。私もこの先の状況を見ながら、ロンドンかコペンハーゲンか、もう一度海外に行ってみたいですね。30 歳、35 歳なんて全然若いですから。
(ロンドンで担当した仕事)
[上段・中段の写真]100 年以上の歴史のある建物のリノベーション・コワーキングスペース(5フロア)。歴史的背景をデザインに反映させている。[下段の写真]賃貸用のシェアフラットとしてのリノベーション(3 ベッドルーム、家具付き)。ロンドンではルームシェアが基本。